茨城人としてのアイデンティティー

私は茨城生まれの茨城育ち、生粋の茨城人である。
 生粋の江戸っ子といえば、ちょっとしたものだろうが、茨城人とはなかなか世には言いにくいものである。
 私が東京で生活した時、なんとも言いようのない差別感を強く感じた。
 そして、啄木の「ふるさとの訛りなつかし停車場の人ごみの中にそを聴きにゆく」を停車場=上野駅で強く共感したのを思い出す。
 


県外で生活することで茨城県人としての、そして海外では日本人としての客観的評価が培われ、アイデンティティーが生まれるのは実感である。
 先日銀座での仕事帰りに、東京駅まで夕方6時ごろだったかタクシーに乗ったところ「いやー、帰る電車はまだあるんですか」と運転手。茨城はどこにあると思っているのか? 
 地域格差が話題であるが、所詮(しょせん)都会とは地方人の巨大な集合体であり、仕事の場所である。その都会に地方で一生懸命育てた労働力を青田刈りのように奪われ、稼いだ金は一銭も返さないと某都知事。また、地方分権とは、地方に権限を移譲するという意味で聞こえは良いが、韓国の国家予算に匹敵する税収を徴集できる大金持ちの東京のみがメリットがあり、いわゆる地方は責任のみをおしつけられただけである。それならば東京都石岡市になりたいものだ。
 それはさておき、茨城のイメージがのちのち私に大きく災いすることになろうとは思ってもいなかった。全国ワースト2の医師不足であるわが県において、医師のリクルートは夕張市民病院に匹敵するぐらい困難なものであり、一極集中し過剰の都内から医師を招く事が大きな命題である事は私ばかりではない。
 しかし、はっきりいえば、わが県は特に人気がないわけである。ネットwebアンケートによると、他県民からのイメージ第1位は茨城弁なまり、2位は田舎臭い、3位はヤンキーであり、リクルートする医師の奥様方にははなはだ低評価である。また、岩中祥史著による「出身県で見る人の性格」という本には関東のみちのく、汚職の県しかもそれに懲りないと…。この事をある東北の方に話したところ茨城県はみちのくにあらずと断られた。
 先日、パリで笠間陶芸日仏展があり、応援を込めてそのレセプションに出席した。茨城の文化は実は非常に高いものがあり、全国的、いや世界的にアピールできるものが沢山あるが、何故か県行政は応援団にはなっておらず、私としては、時間を割いて出掛けたことが、陶芸家の皆様にお役に立ったかは、はなはだ疑問である。また、道中パリの小さな日本料理店に立ち寄り、若いオーナーシェフに笠間焼の話をしたところ、その存在さえも知らなかったことを、含めて幾分、辛い旅でもあった。
 いずれにしても、われわれは存在感の極めて薄い茨城人としてのアイデンティティーを決して捨ててはならず、茨城弁を失ってはならない。
 つくばエクスプレスが開業し、つくばスタイルなどという言葉が作られており、自然や農作物の豊かさをアピールしているようだが、そこには地元民は存在しない。本当の意味での茨城を世に伝え、また、人材や文化をより高いものに育成しなければ茨城人としてのアイデンティティーはいつしか消滅し、「○○じゃん」などという他県のずら言葉からきた方言を何の疑問もなく使う県民に成り下がるに違いない。茨城を愛し、憂う一県民より。

3 Replies to “茨城人としてのアイデンティティー”

  1. 山王台病院について
    看護師さんの対応について院長に聞きたいですけど
    ここの場でよろしいですか

  2. 御返事が大変遅くなりまして申し訳ございません。
    ご質問の件についてですが、できましたら、病院
    正面玄関左手にございますご意見箱、又は、山王
    台病院の下記アドレスまで頂ければと思います。

    m-maku@mx3.mesh.ne.jp

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