介護「お世話」が保険制度となった時から

 私は外科医であるが、なぜか4年前に介護保険の中心的位置付けとなる「介護老人保健施設」(老健)を運営することとなった。いわゆる慢性期医療は、外科の対極に位置するものと考えていた。しかし、いつからか手術を受ける患者の高齢化が進み、今では、90歳以上でも手術を受けていただくこととなった。
 すでに介護が必要となっている老人も当然「見殺し」にはできず、極めてハイ・リスクということである。従って、術後に日常生活動作(ADL)が低下し、介護度が上昇する。つまり、高齢者に対する急性期医療は介護を継続しつつ、術前よりリハビリを、術後はできるだけ早く通常の生活に戻す必要がある。このためには現状の医療では不充分であり、私は老健の必要性をそこに求めたわけである。しかし、介護施設には介護施設たる役割があるはずで、設立に当りいくつかの老健を見学させていただいた。どの施設もゴールドプランとやらで、そのハード面においてはむしろ病院より立派なもので、洒落た建物と介護機器が揃っていた。


 しかし、ある施設で見た老人の姿に、介護に対する意欲が大きく削がれたのを思い出す。そこには歩く老人は見かけられず、車イスでうなだれる姿であった。また食堂のテーブルにはイスが全く見当たらず、「どうしたもんか」と尋ねると、「皆、車イスなのでイスは不必要」と…。それでは廊下の手すりはいらないだろうと思ったが、それを話すと、「まあ、そうすればよかった」と。
 浴室を見せていただいたところ、大きな浴槽と、機械浴と称する何千万円もする代物があり、その手前に脱衣室があった。「いやいや、脱衣室が狭くて狭くて」との説明だったが、なんと一日100人近くの老人を、入浴だけの専門職が次から次へと入浴させているとのこと。ブロイラーか、はたまたアウシュビッツの収容所を連想させた。つまり、介護施設のもう一つの側面が預かり所「うば捨山」であったのである。
 制度と化した「お世話」は、介護を受ける者のニーズにあらずして預ける者のニーズとなり、物言わぬ老人はそこには存在せず、介護者側は事故を起こさぬよう老人を預かり、預ける側は自己責任を放棄し、放棄した自己嫌悪を消化しきれず介護者側に向けることとなった。
 この構図は、戦後、マッカーサー政策によって品格を失った日本人には必然と思われる行動ではないだろうか。制度ができるということはそこには餌があり、利権は当然であり、ゼネコンも機械浴屋さんも役人も、政治家も介護業者、ケアマネージャーも皆まとわり付いたのである。しかし、品格と家族制度を粉々にされた日本人には、もはや戻る道はなく、さらに加速する老人大国を支えるためには、この制度をより成熟したものにつくり上げなければ日本は滅びるだろう。
また、介護を提供する側は職業となった介護の技術を就達させることはもとより、失った日本人の品格を取り戻し、個々に立派な人生を歩んできた老人に敬意を払うべきである。
 なぜか、医療保険同様、介護保険も一定の予算「パイ」は縮小傾向になり、始まったばかりの制度を育むすべもないのは、われわれ自らの責任であるが、先日、厚労省より小規模多機能型や地域密着という、より質の高い介護をする制度が提案された。しかしパイを増やさずして成り立ちはあり得ないことを間近に介護される側になることが迫った世代に問いたい。

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